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8月3日 デモクラシーブルース

前項でご紹介したハリドのブログ(日本語訳)のつづきです。

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 木曜日(21日)、判事は無罪の判決を出した。彼は、証拠書類がパブリック・フォーラムからとられたもので、ぼくが何のコメントも投稿していないことを突きとめたのだ。
 
 むりやり書類にサインさせられて、やっと土曜日(23日)の朝、釈放された。こういう書類だ。拘束されている人々の家族に、家族の一員が拘束されていると絶対言わない。拘束中に起こったこと、拘置所で見聞きしたことを一切誰にも言わない。知り得た違法行為をすべて当局に報告します。(ここに至って、ぼくは笑い出し聞いた。誰かが信号無視をしたとして、それも?)。さらに、テロリストのウエブサイトを絶対訪問しません。

 もちろんぼくは、できる限りの家族に、お宅の息子が内務省の7階、ムハバラートに捕らえられていると伝えた。そして今ここで、ぼくに起こったことすべてを話している。さらに、好きなだけあらゆる種類のウエブサイトを訪問してやろうと思っている。

 ムハバラートに直接連行されたからラッキーだった。ふつうだったら、ムハバラートに行く前に、まず警察署か国家警備隊の詰め所かへ連行される。そこでは、逆さ吊り、何時間も鋼のつなで打つ、電気ドリルで身体を痛めつける、熱湯でやけどさせる、骨を折る、むち打ちの傷に強酸をかける、果てはバグダードのごみ箱で眼球をえぐりとられた遺体となって見つかるというのが、通常の拷問のやり方だ。このような事の数々が、ムハバラートに送られる前に、ぼくの知人や拘束された人々や拘置所で一緒だった人々に起こったのだ。拷問の方法はさまざま数多くあるが、夜眠りたいなら知らないほうがいい。

 ぼくが拘束されていたビルのほかの階には、もう一つ、大きな拘置所があって、「特別待遇宮殿」と呼ばれていた(『1984年』に出てくる愛情省とやらを思い出さない?)(訳注:ジョージ・オウエルの同作品の中で、捕らわれた人が拷問されあるいは更正されて、釈放されるか殺されるかする所)。最近のこと、ここに父親と息子が拘束された。息子は殴られて肋骨が折れ、そこへ熱湯をかけられて、その夜死んだ。夜中、痛みで呻き続けていた。話してくれたのは、息子アイードの傍らで眠ったというその父親で、息子は呻き続けて死んだという。アイードの父親、アブ・アイードのことは、最後にもっと詳しく書こう。

 一緒に捕らわれていた人々のほとんどに共通するのは、一つにはスンニ派だということだ。尋問官たちは尋問の間、拘束された人の一人に、「スンニ派は全員テロリストだ」と言った。ぼくの尋問の間にも差別的な発言や質問をいやというほど聞かされた。一緒にいた人々のうちシーア派の人の罪状はほとんど、テロとは無関係の盗みだとか車乗っ取りだとかだった。

 拘置所でどんなふうに過ごしていたかって。それはね・・・

 コーランを繰り返し読み、一日に5回礼拝し、3回食事し、幾世幾代にもわたる神を讃えた。冗談を言い合い、自分の来し方を話して過ごした・・・

 夜は横になって眠ろうとしたけれど、ほとんど自分のブログに何をポストしようか考えていたよ。

 ずっとそこを出られるという希望を捨てなかった。時間がたつのはほんとに遅くて、悲しくなると、釈放されたら行こうと思うすてきな場所や、何であれ気分をよくする前向きの考えを思いつこうとした。一緒にいる人たちに聞いてみた。ここを出たら、一番にしたいことは何? そして、みんなで、したいと思うすてきなことを考えた。食べたいもの、行きたいところ・・・それは希望創出ゲームだった。
 
 ぼくがほかの人より、ムハバラートの拘置所を早く出られたのは、主にぼくの家族のおかげだ。腐敗した制度はどこでも同じだが、しかるべき人にしかるべき「贈り物」をすると、よい対応をしてもらえる。だが、家族は、ぼくが無実だと信じていたから、判事には一銭も払わなかった。弁護士をつけようとがんばってくれたが、だめだった。ぼくが釈放されたのは、ぼくが無実だったからだ。それだけでなく、判事の前で自分を弁護する能力があったからだ。
 だが、ほかのイラク人はどうだろうか? 問題はここにある。ああいう所を出るための金も力もない人々は? 愛する家族から引き離されて連行された無実の人々は? この人々はどう扱われているだろうか? 誰がこの人々のために闘ってくれる? 人権は? 国民の権利は? モラルは? 

 以下で、例として、ぼくと一緒に捕らわれていた人々のうち何人かのことと、その罪状について書こう。この人々、そしてすべての捕らわれているイラク人が無事に家に帰れるようにと願っている。そして家族とともに、米政権とイラク当局にイラク人の拘束のあり方を改善するよう働きかけようと思っている。何人(なんびと)も家族に拘束されている場所を知らせる権利がある。何人も拘束後、尋問や拷問を受けることなく、すみやかに判事の前で陳述する権利がある。何人も法廷に生身の弁護士を立ち会わせる権利があるのだ。弁護士は少なくとも自分の義務くらい知っていなくちゃね。

 フィラス。26歳の白い肌の青年。食品を入れたビニール袋を下げて歩いていたら、車がアメリカの輸送隊を攻撃したので、逃げた(当たり前だ)。すると、警官が追ってきて、捕まえられた。そして、椅子にくくりつけられ、7時間にわたってパイプで殴られた。フィラスが米軍やイラク警察を攻撃したと自白しなかったので、尋問官は、フィラスは拷問に耐えたところをみると、外国のテロリストキャンプで養成されたに違いないと報告書を書いて、もっとうまい尋問官がいるとされているここへ送り込んだのだ。

モハンマド。ひどくぼんやりした黒い肌の青年。ひじょうに貧しい地区のとてもみすぼらしい昔ながらの喫茶店で働いている。喫茶店の主人がドラッグでとち狂って、モハンマドが警官4人、国家警備隊員4人を殺したと通報した。モハンマドは読み書きはできるとはいえ、文を一つ絞り出すことさえおぼつかない。客にお茶やコーヒーを出す以外のことができるとも思えない。彼と1分一緒にいれば、心は6歳のままだとわかるだろう。毎日小鳥がやってきて(彼の空想の中の小鳥だが)、唯一の家族である祖母の消息を伝えてくれるというのだ。尋問で、「人を8人殺したのか」と聞かれて、「ぼくが? ぼくは国家警備隊員をくそみそ殺すなんて絶対やってません。どうかたいへんな目にあわせないで下さい」と言ったのだ。英語にすると意味が通るようだが、アラビア語だとものすごくへんで、聞けば、話し手に知的な障がいがあるとわかる。モハンマドは8人の殺人罪に問われているからといって、ぼくたちは彼をオオカミ(似合うでしょ)と呼び、ぼくがそこを出るまで、これがニックネームだった。だがこの先彼がどうなるか、誰にもわからない。

誰かを牢獄に入れたかったら、匿名で電話してかれこれの人物はテロリストだと言いさえすればいい。ほんとにそれだけ。そうすれば通報された人は拷問にかけられ、45日間拘束される。そして、「密告者」はこの期間に出廷し、この者はテロリストだと証言することができる。もしほんとうなら(そうなることになっているのだが)、合法的にテロリズムの罪を着せられて、人生の残りを監獄で過ごさなくてはならないか、処刑されるか、釈放されるか。それはまったく判事の腹一つだ。いやCIAの腹一つにかかっていると言えるかな。

後で知ったことだが、あのビルのぼくの居たところの上の階はCIAだ。命令はそこから出されているのだ。

 マイサムとナトホム。20代の兄弟。とても貧乏で、驚くほどハンサム。アラブ版ハリウッドがあったら、きっとトム・クルーズとブラッド・ピットだろう。

 拘束されている間に、ぼくは2回泣いた。うち1回は、ナトホムが尋問を終えてトイレに入ってきたとき。ちょうどその時ぼくはトイレに入っていたのだが、彼は連中がものすごく殴るので、とうとう兄が300人を殺し多数の車を盗んだと言わざるを得なかったと言って激しく泣き始めた。 ナトホムがトイレに入ってきたのはちょうど、ナトホムが告げた罪状を認めろと連中がお兄さんの拷問を始めたとき。ぼくは部屋に戻って長いこと泣いた。なんと汚い。汚いやり口なんだ。

 その夜、ぼくたちはそれをジョークにした。ぼくたちはみんな、「テロの名人」なのだから、刀では50人までしか殺せないと知っている。だからナトホムのお兄さんはよほどたくさん刀を使ったに違いない。それともチェーンソーを使ったのか? 一体どうやれば自分の両手だけで300人も殺せるのか?

 そう、ぼくたちはそれをジョークにした。牢獄で、それもとんでもなくばかげた状況におかれたら、こんな話をもジョークにすることをおぼえる。

 尋問官 「では彼は300人殺したんだな」
 ナトホム 「イエス、サー」
 そこで尋問官は自白書を作る。
 「で、彼はオペルを盗んだんだな」
 「イエス、サー」
 「黄色いやつだな」
 「イエス、サー」
 次に尋問官はペンを置き、こう言う。「b某の息子よ、戦争開始以来2年以上たつが、黄色いオペルは1台も見たことがない」
 (ここだけは本当だ。なぜかイラクのオペルはグレーで、黒とブルーもあるが少ない。黄色だけは1台もない) 尋問はすべて、ナトホムを逆さ吊りにして殴りながら行われた。

 ぼくは出てきたけれど、あの二人の兄弟はまだあそこにいる。

 アブ・カマル(カマルのお父さん)とその甥たち。部族のシャイフで、友人と夕食を共にする約束をして、その地域でみんなが知っている警察署の前で落ち合うことにした。それで車の警告灯を点滅させ、車中灯も点けて、警察署の正面の対向車線に駐車し乗ったまま待っていた。すると警官が数人、警察署から出てきて、彼を拘束し殺人の罪で告訴した。ぼくが出るとき、アブ・カマルと甥たちは殺されたという人の名前も殺人の日時も方法も知らされていなかった。

 アブ・アイード(アイードのお父さん)。アラブでは、「アブ誰それ」というと、「誰それのお父さん」を指すことは知ってるでしょう? ぼくの父親だったら、アブ・ラエド。ラエドは長男だから。たとえば長男がジェームズという名だったら、アブ・ジェームズとなる。いい? いいね!

 アブ・アイードは結婚して長い年月たったが、事情はどうあれ子どものいない人を呼ぶとき使われる。なぜかというと、名前で人を呼ぶのは失礼なこと。人をアブ誰それと呼ぶのは、礼儀正しい敬まった言い方なのだ。だからもし子どものいない人にあったら、アブ・アイードと呼ぶこと。いい? いいね!

 さて、アブ・アイードは約3カ月も拘置所に入れられていた。とことん拷問されて、爪は抜かれ、足の指は砕かれていた。アブ・アイードの名前がテロリストの誰か(たぶんテロリストグループのリーダー)に似ていると考えた者がいて、なんか似てるじゃないかというわけで、連中はアブ・アイードを拷問した。自白して仲間の名と金の出所をあかすまで、拘束し続けるつもりだ。

カトホム。黒い肌の40代の男性。夜遅く酔って政府関係のビルのそばを歩いていた。しばらくしてそのビルで爆発が起こった。警官がさほど遠くないところを歩いていた彼を捕らえた。言うまでもないが、丁重には扱われなかった。

 まだまだある。たくさんのひどい話が。ばかばかしくて情けない、汚なさに落ち込むような話が。 誰か新顔が入ってくるたび、この感情が腹の中からわき上がってきて気分が悪くなる。毎日、違う人に向けてわき上がってきて止むことがない。

あそこでの仲間の一人、ムサイードはほんとにみじめだった。そこに50日もいるのに、誰にも一言もしゃべらなかった。しゃべらないので、誰も彼の罪状を知らなかった。そして、もしこの目でそれを見たのでなかったら、ぼくはこの話をここに書きはしなかっただろう。ムサイードは40日以上、少しもものを食べていなかったのだ。ひとつ部屋に暮らしていれば、そんなことを知るのは簡単だ。そこにいた人々は彼を観察し、毎度のように食べるように勧めた。が、彼の口からは、「食べたくない」という言葉がもれてくるだけ。拘置所でぼくの気がへんになってしまったわけではない。本当の話だ。自分の目で確かめた。ムサイードは水しか飲ん
でなかった。

 yama fissign mazaleemという言葉の通りだということが心から納得できた。これはエジプトのことわざで、牢獄にいる者の多くは、本当は無実だという意味だ。
 また、自由の価値がよくわかった。今は窓から外を見るだけで、町に出かけるだけで、とても楽しい。自由であることをありがたく思うようになった。
 
神がこのような非道と不正のもとにおかれたすべての人を自由にして下さいますように。彼らを家族と友人のもとに返して下さいますように。
 
ぼくたちは、この祈りがきっと実現するように、できる限りのことをします。提供して下さる援助の一つひとつ、人権グループからの法律に関する助言や支援の一つひとつが、たいへんありがたく有益なものとなることでしょう。拘束されている人々、占領下のイラクで日々拘束されていっている人々の権利獲得のために全力をあげなくてはなりません。

ハリド 午後5時46分

(翻訳 池田真里)
by nao-takato | 2005-08-03 16:34 | バグダッド

リアルタイムでイラクの今をお知らせする為の公開日記


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