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8月3日 最近、イラクではこんなことが流行っています 

イラク人ブロッガー(イラクの状況などが満載の日記を書いていた)、ハリドが7月23日に無事に釈放され、拘束されたときのことがブログに綴られました。長いので2回に分けて掲載します。翻訳は池田真理さんです。

ハリドのブログ(原文英語)
http://secretsinbaghdad.blogspot.com/

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2005年7月30日土曜日

気がついたら・・・・

墓穴ほどの広さの空間で眠っていた。頭と足先はそれぞれ壁に触れており、それより先には伸ばせなかった。両脇は人の身体ではさまれていた。その長い・・・終わりの見えない夜の間、ほんのわずか動くことすらできない状態だった。12平方メートルの部屋に35人が詰め込まれ、眠ろう、いさかいをせず何とか一緒にいようと努力していたのだ。

話は授業料を払いに大学へ行ったことから始まる。工学部のキャンパスは、大学本キャンパスからは数キロ離れている。工学部の学生は本キャンパスの大学本部まで授業料を払いに行かなくてはならなくて、ぼくもそうしたわけだ。本キャンパスへ入って、授業料を払いに会計部へ向かった。書類に必要事項を書き込んで、あとは部長のサインをもらえばいいというところまで出来上ったのだけれど、あいにく部長は会議中だった。職員が、会議が終わるまでキャンパス内で時間をつぶしててくれと言ったので、ぼくはそうした。

こういう時ってふつうどうする? 喫茶店に行くでしょう? ぼくもそうしたのだが、15分もたたたないうちに飽きてしまって、そうだ、インターネットがあると思い付いた。時間つぶしにインターネット以上のものはない。 

キャンパスにインターネット喫茶があることは知っていた。この5年間で、ここへは数えるほどしか来たことはなかったけれど。ま、ともかくインターネット喫茶へ行き、いつものサイト巡りを始めた。ラエド、リバーベンドなどなど。でもそのうちこれも飽きてしまった。インターネット喫茶を出て、会計部へ戻ることにした。

途中で、いやな顔つきの年配の男に呼び止められた。「用件は何かね」とアラビア語で言った。ちょっと驚いたが、「用件は何、って?!」とアラビア語で聞き返した。男は、どこへ行くのかと言い直した。それできっと治安要員みたいなものだろうと思った。が、その口調から気付くべきだったのだ。サッダーム体制の治安要員の口調だったのだから。
 「会計部へ、授業料を払いに」とぼく。
 「今までどこにいた?」
 「インターネット喫茶に」
 「身分証明証は?」
 「キャンパスの入り口の受付に、携帯と一緒に預けてある」(現在、政府関係の建物ではどこでも携帯は受付に預けなければならない。持って入ることはできない)。

 一体こんな尋問ってあるのかって呆れないでほしい。「サッダーム体制のイラク」ではごく当たり前のことだったし、現在のイラクでも珍しくもないことだ。

 ともかく、この年配のいやな面相の男は、ぼくがほんとのことを言ってるかどうか、付いて来て確かめることにした。会計部へ入ると事務員たちは同時にぼくに話しかけたので、男はぼくが言った通りだと納得して立ち去った。ぼくは授業料を払い領収証を受け取って、そこを出た。携帯を受け取って帰ろうとキャンパスの入り口へ戻った。入り口に着くと、職員の言うことには「間違えて鍵をかけてしまった」ために携帯が入れてある戸棚が開かなくなっていた。鍵を持っている職員を待つしかなくて、でも「すぐに戻ってくる」と言われた。

 ぼくは座って携帯が戻ってくるのを待っていた。数分後のこと、突然、人が入ってきて聞いた。
「捕まえた男はどこにいる?」

 なんと、もう一人の警備員はぼくを指さした。

 こんなふうに言うのが精いっぱいだった。あのう、何かの間違いです。捕まってはいないし、携帯の戸棚が間違って鍵がかけられてしまったので、ここにいるだけです!

 「ご足労願いましょう。聞きたいことがあります」と彼らは言った。同行しながら、頭の中でどうすべきか考えていた。

 警備員たちは丹念にぼくの身体検査を行った。靴を脱がせ中を探った。時計まではずしてみた。ポケットに入れていた書類は全部読み、出身地、国籍をはじめ多くの質問をした。次に携帯のロックを解除するよう要求した。内容をチェックしようというのだ。この段階で、ぼくは我慢の限界に達していた。それで、キャンパスのどこかに隠れていて、この尋問を下働きを通じて取り仕切っている「当局者」の前でないと、解除するもんかと答えた。

 この答えは気に入らなかったようだ。

 しばらくして、もう一人の男が入ってきて聞いた。インターネットで誰とコンタクトしてたんだ?
 「母と兄弟だ」と答えた。
 納得しなかった。
 「拘留しろ」と男は言った。

 すると、この狭い部屋にものすごく太った警官が入ってきて、壁に向かって立てと言った。全身を探って、所持金とメガネを取り上げた。紙袋を頭にかぶせると手錠を掛けた(今でもまだその痕がある)。後ろ手に手錠を掛けられ、頭に紙袋を被せられたままで、1分ほど走らされた。そこには警察のバンがあり、むりやり連れ込まれた。車はどことも知れぬ所へと走り出した。

 道中聞かされた罵詈雑言悪態の数々をここに書こうとは思わない。けれどやつらの一人がぼくを殴ったことは書きとめておいたほうがいいと思う。

 立派なビルについた。どうしてわかったかというと、床が大理石だったからだ。床だけは、紙袋とぼくの鼻のわずかのすき間から見えたのだ。エレベーターで部屋の一つに連れて行かれた。

 拷問部屋に連れて行かれるんじゃないかと恐れていた。話の通じる誰かが現れて、すべてまったくのつまらない間違いなんだと釈明できますようにと祈り続けていた。

 祈りは聞き届けられた。

 連れて行かれたのは、地下牢のような所ではなく、おおぜいの人のいるエアコンのきいた部屋だった。さまざまな声が誰かを尋問していたからわかった。紙袋は被されたままだったが、ともかく手錠だけははずしてくれた。

 尋問内容からわかったのだが、尋問されている男(後で同じ拘束部屋に入れられ、サイーブという名前だと知る)は、とんでもないことをしたのだった。サイーブは内務省へ行き高級役人の部屋を訪ねると、サイーブの父親が昔彼のもとで働いていたことを言って、便宜をはかってもらおうとしたのだ。便宜とは警官であるサイーブの友人を、別の地区に配転してほしいということだった。

 役人はサイーブの父親を思い出せなかった。それで力を貸せないと答え、あろうことか警備員に、サイーブを捕らえ尋問しろと命じたのだ!

 ぼくが解放されるとき、サイーブはまだ拘束されたままだった。

 サイーブは、「なんてやつなんだ、図々しくも公務室に入るとは」と罵声を浴びせられながら、繰り返し殴られていた。

 エアコンのきいた尋問室での話に戻ろう。ぼくはまだ壁に向かって立たされており、目は覆われていたが、覆いの向こう側の様子を知ろうとして頭を忙しく働かせていた。

 ついにぼくの番が来た。

 「いよいよだぞ!」とぼくは自分に言った。

 こういう質問から始まった。「お前とロンドン爆破事件との関係は何だ?」

 驚いてこんな声しか出なかった。「えー?!」 ぼくは「ロンドン爆破事件だって?! まったく関係ない」

 ばしっ!!

 でかい手が思い切りぼくの首に振り下ろされた。一瞬何が起こったかわからなかった。痛みも感じないほどだった。しばらくの間、首はしびれていた。

 「言うんだ!」と男は怒鳴った。

 「こっちを向け」とまた怒鳴った。

 ぼくは、部屋の方へ向き直った。でも見えるものは、自分の鼻と、尋問している男の靴だけだった。それほどすぐ傍に立っていたのだ。

 「なんで髭はやしてるんだ?」

 「なぜなら預言者が・・・」。ぼくが預言者ムハンマドは髭を生やしていて、自分もそれにならったのだと説明しようとしたとたん・・・ばしっ!

 男はぼくの顔面を殴りつけた。ものすごい音がして、数秒間、部屋は静まりかえった。

 「預言者、こいつに罰をお与え下さい」と男は大声を上げた。

 またもや一瞬何が起こったかわからず、痛みさえ感じなかった。

 続く数時間のあいだ、「テロ集団のメンバーの名を言え、どっから金が来るんだ、どんな作戦をやったんだ」などと繰り返し問いつめられた。

 「シーア派に対して何を企んでるんだ?」
 「何も。うちの母はシーア派だ」
 「クルドに対して何を企んでる?」
 「コーランにはこう書かれているから・・・」

ぼくは無実の人々を殺してはいかないと神がお命
じになっていると書かれていると言おうとした。男はそれをさえぎって、「お前にコーランを教えてもらおうとは思わない」と怒鳴った。
「親友はクルド人だ」とぼくは言った。「そうだろうともさ、情報を得るためにな」と男は応じた。

 何を言おうとむだだった。やつらが言うことも全く支離滅裂だった。

 数時間たってやっと、なぜここにいるのか、やっとわかってきた。大学の治安要員は、ぼくが見ていたウェブサイトを全部プリントアウトしたのだ。やつらは、ぼくを「テロリストのサイトを見ていた」とか「外国のテロリストと連絡をとっていた」とか言って責め立てた。
 「このページを知ってるだろう?」
 プリントアウトされたそれを見ると、ラエドのブログのコメントページだった。 ぼくは大学でインターネットにつないでいる間、コメントページを開いて、いくつか読んだが、投稿はしなかった。だが、この連中はインターネットの仕組みを知らないようだった。それに英語もできなかった。そんなわけでぼくはザルカイの手先として大物容疑者にされたってわけだ、たぶん。そ
れとも外国と通じたテロリスト・グループを率いているとか。

 協力する姿勢がないから、助かりたいという気がないのだ(!)とやつらは結論を出し、ぼくはテロリストの罪を着せられ拘置所へ送られた。
 「協力の姿勢がないって!? 聞き出したいことには何だってちゃんと答えて協力してるじゃないか。何が知りたいのか、はっきり言ってくれ」
 「グループのメンバーの名を言え。資金はどこから出ているのか」というのが返事。
 ぼくが拘置所へ入っていくと、そこにいた人々はもの珍しそうに見つめたが、誰も一言も発しなかった。
 ぼくはにっこりして「アッサラーム・アレイクム」(こんにちは)と挨拶し、ほかの人がしているように床に座った。そこにいた人々は「アレイクム・アッサラーム」と返してくれた。すると中の一人が我慢できなくなって、聞いてきた。「どうして入れられたんだ?」
 ぼくがいきさつを話すと、みんな非常に立腹したようだった。続く数分、ぼくはそこにいる人々がどうしてこうなったか、話を聞いた。聞いているうちに、ふと疑問が湧いた。「ここはどこ? 知ってる?」
 みんなちょっとひるんだようだった。それでぼくには、みんなは知ってるなということがわかった。だが、来てまだ数分にしかならないぼくにそれを教えるほど、信用してくれているかどうか、わからなかった。すると誰かがぼくの耳に「istikhbarat il dakhaliyyaだ。だが、誰にも言うな」とささやいた。stikhbarat il dakhaliyyaとは、ムハバラート、つまり情報機関、秘密警察だ。「なんてことだ! 家族は知ってるの?」 全員が首を振った。家族は誰も知らないのだ。

 その部屋にはおよそ35人がいた。そのうち4人は10代だった。彼らがどうして捕らえられたか、このポストの最後で書こうと思う。

 その日のうちに、そこにいたほぼ全員と友だちになった。そして眠った。長い一日だった。家族のことが気がかりだった。どうやって、自動車爆弾で死んだのでも、誘拐されたのでもないということを知らせようか。家族は、ぼくが友だちとどんちゃん騒ぎをするためや、サーカス団を追っかけるために家出するとは絶対思っていない。

 翌日も尋問に引っ張り出された。

 連中はありとあらゆる質問を繰り出してきた。それもすごい速さで。先生の名前、友人たちの名前、同級生やクラスの女子学生の名前まであげた。セックスをしたことがあるかと聞いた。ノーと答えた。連中は納得せず、ぼくをからかって、男のほうがいいんだろうと言った。これにもノーと答えた。

 最後に「自白書」を書けと言った。判事のところへ送られ、罪状を確定するための書類である。 男は言った。お前はテロリストのサイトに参加した罪に問われている(彼は、青年をテロにリクルートするためのサイトだと言ったのだったか、思い出せない)。何か意見はあるか。

 ぼくは、目隠しをされたまま答えた。こう書いて下さい。
「私はすべてを否認します。私は、世界中の人が自分の意見を表明するために訪れているサイトで、ある話題について人々が表明している意見を閲覧するという、民主主義的権利を行使していたのです。」
 男は言った。「一体全体これは何だ。私に作文の書き取りをさせようっていうのか。質問に答えりゃいいんだ、くそったれ。お前はテロリストのサイトに参加した罪に問われている。さあ何と答える?」
 ぼくは自分の答えを繰り返した。だが、今度は男の貧相な脳みそでも理解できるようあまりむずかしくなく。連中は何事か書き付け、ぼくにサインさせた。

 連中のうち高校を出た者がいるかどうか疑問だ。野蛮でモラルがなく、教育を受けたとは見えなかった。何かというと悪態をつくことや話す言葉から、どういう人間たちかよくわかった。逮捕された時、ぼくの所持品について聞いたら、携帯と身分証明証は彼らが預かっていると言った。が、太った警官はぼくのメガネを壊し、金を盗んだ。結局、携帯も身分証明証も返してくれなかった。

 彼らは英語がわからないので、一度もサイトの内容について尋問しなかった。知り得た限り、それがぼくの唯一の罪状であるのに。

 3日目、なんとか家族に連絡をとり、ぼくは無事で内務省の7階にいると伝えることができた。もちろん「非合法」行為だ。その頃、父はバグダード中の病院という病院、警察署、死体置き場を捜索していた。イラク陸軍、イラクの私兵集団、米軍、ぼくが拘束されている内務省までも調べていた。

 家族にぼくの居所を知ってもらってほっとした。ぼくは、元気で十分に食べ眠っていて、誰にも痛い目にあわされていないと伝えた。

 8日目。裁判を受けるため、拘置所から少し離れた裁判所へ連れていかれた。着くと、足かせもはめられ、手錠をはめられた両手は鎖で胴体にくくりつけられた。犯罪者扱いされ、鎖でぐるぐる巻きにされて出廷させられたことに屈辱を感じた。ほんの数秒泣いたが、周囲に気付かれることなくすぐに自分を取り戻した。

 初めに法廷の尋問者のところへ連れていかれた。ここで尋問者は、ぼくの自白書を趣旨通り理解されるよう、わかりやすく書き直した。彼によると、法廷はこの事件のために公的弁護人を任命するという。ぼくがそれでどうなるのかと聞くと、「どうにもならない。形式上のことだ」と答えた。彼はぼくの「自白書」にサインするよう求め、安物の服を着た太った男を呼び入れた。得体の知れぬ男は入ってくるなり、「自白書」にサインした。「弁護士、何野何兵衛」。それからしばらくして、判事のところへ連れて行かれた。

 判事は40代の上品な男で、エアコンのきいた部屋で上等な机に向かっていた。コンピュータと最新の携帯を傍らに、部屋の外には護衛、横には秘書をはべらせていた。

 初め、彼はぼくの方を見なかった。書類をあちこち繰りながら、質問した。「お前の言い分を述べよ」。そこでぼくは言った。「授業料を払いに大学に行ったら・・・」。
彼は苛立たしそうにぼくをさえぎって、「ウエブサイトだ。ウエブサイトのことを聞いてるんだ」と言った。

 ぼくは言った。「それはフォーラム、つまりそのサイトの管理者が書いた話題について議論する場です。私はそこを訪問しましたが、意見を投稿しはしませんでした。サイトを閉じて、インターネット喫茶を出ました。そうしたらここへ連行されたのです」。
 
 彼はぼくの言うことが理解できたようだった。「チャットみたいなものか?」
「そうです。チャット・ルームというよりウエブサイトと言ったほうがいいですが。サインインしな
くてもフォーラムで進行している話題に参加できます。私はただ閲覧していただけです。私にとっては、どちらかというとテレビのさまざまな局を回して見ているようなものです。どんな内容かも知らずにチャンネルを回して行き当たった番組を見ていることがあるでしょう。もし気にいらなかったら、チャンネルを替えればいいのです」。

 判事はぼくをさえぎった。「オーケー、オーケー、わかったよ」
 
 判事が持っていたのは、ラエドのブログのコメント欄を翻訳したもの37枚分だった。そう、それがぼくの事件の証拠書類だったのだ。判事はぼくに聞いてきた。「ここの単語の間の奇妙な記号は何だね」。 
ぼくは、「たぶんこれをプリントアウトした人がフォントを間違えたのだと思います。こ
のような奇妙な記号はその言語に合わない間違ったエンコードを選んだときに出てきます」。 判事はコンピュータに通じているようには見えなかったが、少なくとも基礎は知っていた。

 「行ってよろしい。この書類を家へ持ち帰って読もう。判決は明日出る」

 先の太った男が入ってきて、判事の前の椅子に座った。この男はぼくの「弁護人」だ、だが、一言も口をきかなかった。ただの一言も。彼がぼくの弁護人であると書かれた書類にサインしただけだ。

 ぼくは拘置所に連れ戻された。これが水曜日の話だ。
by nao-takato | 2005-08-03 16:11 | バグダッド

リアルタイムでイラクの今をお知らせする為の公開日記


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