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2月12日 ラマディからの報告

ラマディに住む友人から送られてきました。ファルージャがバグダッドから西へ60キロ。さらに西へ60キロ行くとラマディです。長文ですが、読んでみてください。

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2005年1月23日
 今日、僕は自分の町ラマディへの長い帰路についた。ヨルダンの首都アンマンからイラク人ドライバーのGMC(4輪駆動車)に乗り込んだのは夜の9時35分だった。国境までの道のりは長く5時間以上もかかり、そして退屈だった。みな眠たくて仕方がなかったけれど、誰も眠る者はいなかった。僕らは、国境を越えた直後に何が起きるかわからないということを常に気にかけていた。自分の身に起こらないとしても、自分の家族の誰かに何かが起きるかもしれない。アンマンにいる間は、どうしたって家族とは連絡が取れないのだ!

2005年1月24日
 深夜の2時25分、僕らは国境にたどり着いた。辺りはとても穏やかな雰囲気で何の問題もなく、ヨルダンを出国するのにたった20分しかかからなかった。
 次はイラク入国だ。およそ100台の車が国境が開くのを待っていた。国境は米軍に閉鎖されていて、イラクに入るなら朝8時まで待てと言われた。凍えるような冷たい風が吹いていたけれど、仕方がない。僕らは車の中で待つことにした。僕らはみな眠るよう努力した。いつの間にか眠りに落ちていたが、あまりの寒さに目が覚めたらちょうど2時間が経っていた。僕はドライバーを起こし、寒すぎるからエアコンを入れてくれと頼んだ。それからはもう眠れなかった。僕らはただ黙って目を瞑っていただけだった。
 8時半になってようやく米軍が国境を開けた。車がイラク側に連なっていた。僕らの車は国境を越えるのに2時間もかかってしまった。
 いよいよ僕らの車は、長く、ドキドキする、危険な、死のハイウェイを疾走し始めたのだ!砂嵐が舞い上がり、移動することは危険そのものだった……。僕はたくさんの焼け焦げた車を見てしまった。彼らはハイウェイ脇に車を止めていたところを米軍に撃たれてしまったのだ……。だから僕らはどんなに砂嵐がひどくても車を止めることができなかった…。止めれば、疑われるからだ。ドライバーは走り続けるしかなかったのだ!砂嵐のせいで、視界は悪く10メートル先までしか見えない。車のスピードは時速50キロだった。
 4時間後(国境から約200キロの地点)、突然、僕らは1台の車を発見した。そして大勢の人たちが何やらその車の中にいる家族を助けようとしていた。その車は、砂嵐の中をゆっくりとしたスピードでハイウェイを走っているところを米軍の戦車に射撃を加えられたらしい。そのドライバーは砂嵐で視界が悪かったため、米軍の後ろを走っていることに気づかなかったのだ。ところが、戦車の方は、視界が悪くても距離が離れていてもいろんな道具を使えば見えるというわけだ。けれど、米軍の戦車は警告を発することもせず、その車両を攻撃したのだ。結局3人が死んで、2人がケガをした。彼らはバグダッドからの家族だった。死者の一人は17歳の女の子で、彼女は頭を撃たれていた。何人かがケガ人を国境(200キロ地点)に近いクリニックに連れていった。
 僕らのドライバーは気が動転してしまったようで、泣いたり叫んだり、完全に自分を見失っていた。僕はドライバーを車に乗せて、彼の代わりに運転することにした。誰もが今目撃したことを考え続け、黙り込んでしまっていた。そして、それは数秒後に自分たちの身に十分起こり得ることだった!
 乗客の一人が僕の運転を非常に心配していた。僕がこの辺りの道を全然知らないと思っているらしく、「この道は安全か?本当か?気をつけてくれ!」とやたらに聞いてきた。「信用してくれ。生き残る道は承知している」と僕は答えた。しばらくして、僕は乗客全員に言った。「より安全な迂回路、つまり“米軍がいない道”を通るけど、いいね?」全員が僕の提案に同意してくれた。僕はより安全な古いハイウェイを通った。
 午後3時45分、僕らはラマディのチェックポイントにさしかかった。そこにはたくさんの戦車と米兵がいた……。数人の地元の人たちが僕らを止めて、このチェックポイントは避けた方がいいと言ってきた。なんと、15分前に米軍が1台の車を爆破させたばかりだと言うのだ!僕は車を引き返し、農道を通ってラマディに入ることにした。農道はひどい道だった。せまくて、泥でぬかるんでいた。それでも、なんとかラマディに通じる西の橋までたどり着くことができた。
 市場の通りでは激しい戦闘があったらしく、10台もの焼け焦げた車があり、建物はことごとく破壊されていた。誰もがその光景にショックを受けた。空っぽになった通りに突然、銃声と爆発の音が轟いた。僕は車を止めて降りた。ドライバーに他の乗客を連れて町の西側に逃げるように言った。僕はせまい小路を走り抜けて自宅までの安全な道を探した。けれど、戦闘は僕の家の周りで起きていた。たくさんの戦闘員がケガをしていたり、あるいは死んでいた。たくさんの民間人も米軍の狙撃兵に撃たれていた……。僕は、ケガをした人の誰かが「助けて…助けて…」と叫んでいる声を聞いた。彼は通りの端っこにいて、ケガをした体をひきずって身を隠そうとしていた……。僕は彼を助けようと思った。しかし、米軍の装甲車は僕に向かって射撃を始め、ケガをした彼の方に向かっていったかと思うと、その彼を踏み潰した……。なんてヒドイ……。彼は踏み潰された……。彼はケガをしていたのに……。しばらくして、他の戦闘員がやって来て米軍の装甲車と米兵に向かって攻撃し始めた。すると突然、目の前に1台の普通車が現れて、車に乗れと僕に言った……。僕は言われるまま車に乗り込んだ。彼らは僕を安全な通りまで連れていってくれた。そのうちの一人が「なんであんな所にいたんだ?死にたいのか?気をつけて隠れていないと米軍に殺されるぞ!」と言ってきた。僕は目の前で装甲車がケガ人を踏み潰したのを見てショックを受けていたことを彼らに伝えた。「気をつけろよ」彼らは僕にそう言った。
 僕は命を助けてくれた彼らに礼を言い、それから「戦闘中なのに、あなたたちは何をしているんですか?」と聞いた。45歳くらいの男性が答えた。「戦闘中、私と息子2人でケガ人の救助にあたっていたんだ。民間人には危険な通りは避けるように警告したりね。そこで、君が戦闘地域に走っていくのを見つけたというわけさ。けれど、君を止めることができなかったから後を追いかけてきて君を拾ったんだ」僕はもう一度礼を言い、彼らは行ってしまった。
 彼らは車の中に銃を持っていたから、僕はてっきり戦闘員なのかと思っていた。でも、彼らは戦っているのではなかった。僕や他の人々を助けていたのだ。なぜなら、救急車がケガ人を運ぶことを許されていないからだ。彼らは命がけで人々を助けていたんだ。
 やっと自分の家にたどり着いた。僕は家族全員が無事であることを確かめたが、新たな弾痕が家に残されていた。とにかく、僕はもうその日1日はおとなしく家の中にいることに決めた。

2005年1月25日
 午前11時頃目を覚ました。静かな朝だった。僕は市場の方に行ってみたのだが、通りのあちこちに血痕が残っているのを発見した。僕が長くてハードな旅の疲れで深く寝入っている間、激しい戦闘が繰り広げられていたのだ。
 僕はいろんな人に選挙についてたずねてみた。ほとんどの答えが「自分の家族や子どもたちを守ることで精一杯……。だって、米軍が……」
 先週はひどく寒い日が続いたけれど、ずっと電気もないし燃料もなかった……今日は水不足が始まった…なぜなんだろう?誰もこの町の供給施設を攻撃したりしていないのに、止まってしまった!
 友人の1人が夕べの戦闘の犠牲者について教えてくれた。15人が死亡、そのうち13人が民間人で、どういうわけか無傷で死んでいたということだ……。

2005年1月26日
 ほとんどの人が命の心配をしている……。近所の人が言っていたのは、米兵が家宅捜索をしにやって来て家中の家具を壊していったということだ。けれど、その人の家からは何も怪しいものは出てこなかった。
 夜6時から翌朝8時までの外出禁止令が今日、出された。1月28日には完全に外出禁止になるだろうという噂も流れている。空には米軍のF-16が煙を吐き出していて、人々はその戦闘機がいつ住宅に向かって攻撃してくるかと怯えている。
 今日、ラマディ周辺の道は封鎖された。通りから警察官が消え、警察署は完全に破壊されていた。通りには戦闘員と米兵しかおらず、絶えず戦闘を続けていた。ファルージャも封鎖された中で戦闘が続いていて、市内に入ることは難しい。
 真夜中に僕は庭で物音を聞いた。そして、今度は誰かが自宅の玄関をものすごい勢いで叩いた。米兵だった。僕は米兵に受け答えをしないようにした。すれば、逮捕されるか殺されることはわかってる……。米兵は、真夜中に起きている者はみな逮捕する。自分の家の中にいてもだ。僕はそのことを覚えていた。どうやら米兵は夜中に起きている者はすべて誰か(戦闘員)と密会合すると疑っているらしい!だから、僕は彼らのことを注意深く無視しなきゃならないのだ。だって、彼らは米兵だから。

2005年1月27日
 朝8時15分、ラマディの北部で戦闘の音と、狙撃兵の撃つ銃声が聞こえていた。今朝、3人の民間人が殺されたと何人かが教えてくれた……。出れば撃たれるかもしれないから、みんな家から出たがらない。なぜなら、狙撃兵は真夜中にこの町のいたる所にやってきて、民家の屋上を占領していくからだ。
 選挙まであと2日。けれど、ファルージャやラマディの雰囲気はまさに戦場で選挙どころではない!僕たちは家族を守ることに精一杯で、誰に投票するかなんて考えられない。バグダッドの友人たちは選挙プロパガンダについてとてもおかしなことを言っていた。党を代表する立候補者の名前が公表されておらず、数字があるだけだというのだ。この数字が意味するリーダーの理念も知らされず、ただ数字を選ぶのに選挙に行く人なんているだろうか。この数字が良いか悪いかは運次第……ってことかもしれない。
 ファルージャやラマディの人たちは恐らく、チャンスがあっても選挙には行かないだろう。なぜなら、ほとんどの数字は犯罪者のような政党だからだ……。たいていのこういう政党は、過去25年間イラク人を利用してきた。それら政党は市民に対抗し、また他の政党とも対立してきた……。とにかく多くの問題を引き起こしてきたのだ。
 そして今度はイラク人に命がけで投票するように呼びかけている。われわれイラク人に与えられた選択肢は3つある。“悪い”、“より悪化”、もしくは“死”だ。これがイラクにある選択なのだ。しかし、ファルージャとラマディにはたった一つの選択肢、“死”しかない。僕たちは、“悪い”や“より悪化”に投票することもできないのだ。

2005年1月28日
 早朝、ものすごく大きな爆弾の音が3発聞こえた。米軍が警備にあたっていたにもかかわらず、3つの学校が戦闘員によって破壊された。人々は、恐らくこれらの学校が投票所になるから爆破されたのだろうと言っていた。ヒドイ。生徒たちにとっては最悪だ……。学校は子どもたちのためにあるのに……。
 午前11時、米軍と戦闘員との間で戦闘が再びはじまった。米軍の狙撃兵は何人も殺した。この戦闘がどんな結果をもたらしたかなんて誰にもわからなかった。米兵はスピーカを使って人々に選挙の時間を告げ、投票の仕方を説明していたが、誰も選挙のことを気にしていなかった。誰もが自分の家族の命のことを心配していた。
 僕はこの選挙が真実であることを望む。そして、今ある選択肢を選ぶのではなくて、僕たちに必要なものを選べる選挙であることを望むのだ。
 これでラマディの学校はトータル3校もなくなってしまった。それにしてもどうやって戦闘員たちは学校を次々と爆破することができたのだろう?狙撃兵と米兵がラマディのいたる所にいるというのに……。
 電気もなければ水もない。家族のために買い物にも行けなくなってしまった。すべての道路は封鎖され危険になった。僕たちは馴染みのある自分たちの町に住んでいるのだろうか?それとも、米軍の監獄の中に入れられているのだろうか?

2005年1月29日
選挙前日。空は軍用ヘリコプターで混雑していた。まるで、アメリカの映画スターたちが出てくるハリウッドの戦争映画みたいだ。軍事色に空も通りも染まっている。
 米兵がスピーカを通して「明日は選挙だ。良いリーダーを選べ!」と言っている。良いリーダーだって??僕らの良きリーダーは殺されたか監獄の中だ!……いや、彼らが言いたいのは政治政党のリーダーということか?しかし、僕たちが知っている政党のリーダーはほとんどが自己中心的か殺し屋だ。彼らはサダムフセインと戦うためにイラク人を使い、今度はイラク人と戦うためにアメリカ人を使ってる。
 明日、選挙に行きましょうか?いや、僕は行かない。選挙に行ったからといって良い選択などないのだから。僕だって彼らの中に良いリーダーがいればと本気で思う。けれど、いないのだ!
 明日の選挙は強制的に行かされるのだろうと思っている人が結構いるけど、僕はそう思わない。わからないけど、もしかすると僕たちは家の中に居ろと強制されるような気がする。そして、メディアは「すべてのイラク人が自由に投票しています」と報道するのだろう。明日になるのを待って何が起きるかを見てみることにしよう。僕は今、困惑している。この周りでたくさんの戦車が動き回っていて、通りにある駐車中の車を次から次へと潰していっているのだ。通りにいた人すべて殺されているのだ……。わかるかい、彼ら米兵には人を殺す権利があるんだよ!!!!!
 毎日毎日、犠牲者が増え、拘束される人が後を絶たず、家々が破壊され尽くされている……。毎日毎日、ますます非人道的な作戦(軍事作戦)が行われている。
 
2005年1月30日
 選挙の日!!
 僕は夜中の3時にものすごく大きな爆発音で目が覚めた。僕の家の前の通りで爆弾が炸裂したのだ。米兵が泣き叫んでいるのが聞こえた。窓越しにまだ薄暗い外を見ると、3人の米兵の死体があった。ケガをした兵士は4人いて、そのうちの一人は片足がなかった。彼は泣いていた。兵士の一人が無線を取り出して助けを呼んでいた。そして、その兵士は無線を切ると他の兵士に「さっさと地図を持ってこい」と怒鳴った。彼らはとても苛立っていて、パニック状態のようだ。叫び、泣きわめいていた。一人がまた叫んだ。「おぉ、ジョンか?いや、ジョンじゃない!ジョンが消えた!」
 4台の軍用車両が走行中に、爆弾は通りの右側で炸裂した。1台は完全に木っ端みじん。もう1台は燃え上がり、死んだドライバーを乗せたまま走行していた。指揮官は恐らく逃げ道を失ったのだろう……、うろたえていた。他の兵士たちが負傷した兵士たちの手当をしていた。
 20分後、米兵たちは現場からいなくなった。朝になって、現場に行ってみるとそこには大量の血痕と軍用車両の破損したパーツが散乱していた。僕は悲しかった。なぜなら、僕の家の前に血と人間の死体があったからだ。今日はいたる所で攻撃が起こり、たくさんの人が逮捕された。
 午前10時20分、軍用車両が何台も僕らの家の通りにやってきて家宅捜索を始めた。数家族が疑われ、そのうちの何人かが携帯電話を持っていたので、連行されていった。米軍は道を封鎖し、すべての道は狙撃兵で固められた。
 3時間後、爆発音が2回聞こえた。さらに兵士が殺され、彼らは町から逃げていった。しばらくして戦闘員が現れたので、僕はそのうちの一人に「何が起こってるんだ?ひっきりなしに爆発音が鳴り響いている」と聞いた。「そうさ!我々はケガをしたイラク人を踏み潰した奴らを殺したのさ!」彼は怒ってそうまくしたてると行ってしまった。5日前、僕の目の前で米軍の装甲車が若いケガをしたイラク人を踏み潰していった。彼はそのことを言っているのだった。
 僕はもっと悲しくなった。戦う両者が報復する権利を主張している!これは報復という負の連鎖でしかない。僕らの通りに残された血痕はイラク人の血とアメリカ人の血が混じっている。爆弾は、装甲車で踏み潰されたイラク人と同じ場所で炸裂したのだった。
 どっちが間違っているんだ??誰か答えてくれないか??
 僕は思う。どちらも間違っている。人を殺す権利があると思っている全員が間違っているのだ。これがイラクの日常から僕が学んだことだ。
 この文章を読んでいる人はイラクの選挙のことなどすっかり忘れていただろう。違いますか?そう、僕たちも選挙のことは気にしていなかった。僕たちが気にしているのは、こんなドラマティックな日常生活のことだけなんだ!!メディアはイラクの選挙が成功したと報道しているけど、ラマディが米軍であふれかえっていてもそんなニュースはどこにもない。この選挙は世界で一番危険な選挙だった。そう、これがイラクの選挙!!

2005年1月31日
 今日のメディアは選挙が成功したと口々に言っている。もちろん、僕も選挙は必要だと思うし、それ自体はうまく行ってほしいと願っている。ラマディのほとんどの人は他のイラク人のように投票には行けなかったけど。驚くべきことに、状況がとてもとても静かに穏やかに、そしてとっても平和的になっていることだ。思うに、レジスタンス(抵抗勢力)側がとうとう事実を受け入れ、政府に対する要求や生活の改善を主張する権利を我々に与えるために、選挙をやらせてみようという気になったのではないだろうか。

 僕もイラクにとって選挙は必要なステップだと思う。だけど、イラク人の30%が投票しなかったのだし、これは合法的なやり方ではなかった。もちろん僕たちは南部や北部のイラク人の選択に敬意を表す。それに彼らは、なぜ僕たちが投票しなかったかを理解してくれている……。投票結果が良いリーダーシップを示すことを強く望む。そのリーダーシップはアメリカに属するのではなくて、僕たちイラク人に属していることを望む。結果はすぐに出るだろう。

2005年2月1日
 今日も静かな1日だ。狙撃兵も、戦車も兵士も戦闘もない。人々は外出し始めた。僕は市場に行ってみたが、あいにくインターネットカフェは閉まっていた。友達にメッセージを送らなきゃいけない。特にナオコはとてもイラクの友人たちのことを心配しているから、彼女にみんなが無事だということ、町の人々も少し落ち着いてきたこと、そして僕たちがこの状況の中で強くいられるのは平和を愛しているからだということを伝えなきゃいけない。
 ちょっと言わせてくれ。僕は今のこの穏やかな生活にひどく驚いている。2,3週間後には何かとても良いことが起きるのかもしれないなんて期待している。

2005年2月5日
あぁ……、やめてくれ……米軍がまた僕らの町にやって来た。また戦闘が通りで始まるようだ。でも、今日はまだそれほどヒドクなさそうだ。
by nao-takato | 2005-02-12 03:29 | ラマディ/ファルージャ

リアルタイムでイラクの今をお知らせする為の公開日記


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