あるイラク人男性の話

マレーシアで知り合ったあるイラク人男性(52歳)の体験談です。彼にとっての2006年は壮絶すぎるものでした。そして、次々と殺されていく身内。息子の話を聞かせてくれた時、周りにいた人たちももらい泣きをしていました。

<1回目の不当逮捕>
2005年7月、自宅から夜中2時に突然イラク警察が自宅にやって来て、35台のパトカーでやって来た。金の指輪2つを盗まれ、妻を殴られ、携帯を取られた。全員が警察の特殊部隊の制服で、黒いマスクを全員が被っていた。私は飛び起きて、何事だ?と聞いたら、警察官は「アブオマルを逮捕する」と言った(※アブオマルとは、オマルのお父さんという意味で、オマルはスンニ派特有の名前)。私は「ここら辺にはたくさんのアブオマルがいる」と言うと、警察は私を指差して、「お前だ」といった。

私は最初逮捕を拒否したが、下着姿のまま家の床に押し倒された。後ろ手に手錠をかけられ、頭に袋をかぶせられた。そして、トラックの荷台に載せられた。荷台では、彼の上に1人の警察官が座り、彼を叩き続けた。

後で知ったのだが、逮捕の理由は「ファルージャ総攻撃の時に人道支援活動をしていたから」。彼のNGOは国連に登録していたにもかかわらず。2004年8月にアラウィ時代にNGOは計画省に登録、アラウィのサインもある。

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←アラウィ前首相のサイン

収監されていた所でオフィサーが「なぜ、ファルージャの人間とつきあい、支援をしたのか?」と聞いてきた。刑務所ではなく、元政府系軍需産業企業のビルに収監されていた。大きな部屋に12畳ほどの部屋に100人くらいが立ったまま収監されていた。私は年配だったので、若者が場所を譲ってくれて、水ボトルの入っていた段ボールを敷いてくれた。警察官は入れ墨をしていたので、元囚人だった。罵詈雑言、叩く、水は一口ずつ。食料は100人に2つの大皿にご飯がもられてきて、朝食には5人分のスープだけが配られ、それを100人で分けた。

1人90歳以上の老人もいた。警察は大量の銃を持ってきて、囚人を一列に並ばせ、銃と一緒に写真を撮った。それはイラキーヤで放送された。深夜になると、一人ずつ呼び出された。呼び出しに来た人たちはバドル軍団のメンバーだった。ただの民兵だった。イラク語とペルシャ語が混ざっていた。書類にサインを強いられた。その書類は「武器を密輸した」などの内容で、それにサインしろと言われ、拒否した。

警察が私たち囚人を叩く時、歌を歌っていた「ようこそ、ようこそ、囚人さん」。
時々、何人かの囚人を30〜40台のトラックに載せて、バグダッド市内をまわった。スピーカーで、「シーア派のみなさん、安心してカルバラ、ナジャフに行けますよ。私たちがラティフィヤのテロリストを捕まえましたよ。見てください」と言っていた。2006年2月に釈放された。約8ヶ月間収監された。

<息子の死、甥の死>
息子の1人がマフディ軍に誘拐されて殺された。拷問されていた。目を潰されていた。舌を抜かれていた。後頭部に2カ所穴が開いていた。彼の名前はオマルで長男。最も辛かったのは、死体の山の中から、息子の足にロープをくくり付け、ひっぱり出したことだ。(※彼はその話をした際、嗚咽した)息子の遺体を引き取るために600ドルを病院に支払った。埋葬しに行く途中シーア派地区を通った時、マフディ軍がやってきて、私の甥が銃殺された。彼の名前はファルカット。その墓はスンニの墓地だから、そこを通る者はみな殺されている。

<2回目の不当逮捕>
2006年3月、マリキ政権がスタートしてすぐにまた警察に逮捕された。警察は私に内務省に1回目の逮捕歴の書類を取りに来るように言った。息子ムハンナドと車で内務省に行った。内務省のビルに着いて、「書類を取りに来ました」と受付で言ったら、誰かがやって来て、手錠はかけず、そのまま別室に連れていかれ、そのまま収監された。それはビルの7階だった。このビルの7階は人々から「イラニアンフロア」と呼ばれている。私は、その階にいる人たちがイラン人であることに気がついた。そこに2ヶ月以上収監された。50センチの幅しかない狭い部屋だった。1メートルの長さしかなかった。内務省はこのフロアを刑務所用に改築していた。私は戦前にこのビルを訪ねたことがあり、改装していたことは間違いない。

今回、警察は2つのことを強要した。一つはイラキーヤテレビに出演し、「ダリ氏(イスラム法学者協会の代表)はテロリストのために資金を調達し、外国からイラクに武装勢力を送っている」と言えと言われた。もちろん、拒絶した。2つ目は、レジスタンスの情報を持ってこいと言われた。もちろん、拒絶した。警察が私を選んだのには理由がある。それは、私がイギリス人の拘束事件で解放に尽力していたからだ。

<拷問>
私がこの2つの命令を拒絶した途端、彼らは拷問を始めた。左手の中指と薬指を電気ショックの線で巻き付け、だんだんに電圧を挙げられた。私は叫び声を上げた。足には鉄の足かせをはめられた。電圧を上げられた。ワイヤで縛られた指先は壊死してしまい黒くなった。天井から鉄の鎖が下げられていて、私は後ろ手につながれ、警察所長は鎖を引っぱり、吊るし上げようとした。そして、痛みが走るたびに命令に従うよう強要した。

拷問の後、2日間とても痛かったので、病院に連れて行けと警察にお願いしたが断られた。米兵が来るたびに、警察官は拷問の痕が残る囚人をビルの中を連れ回し、隠していた。拷問の2日後、突然アメリカ兵が(10人ほどの米軍ハイランクオフィサー)が入ってきて、私はアメリカ兵に指を見せた。米兵は驚いていた。他の拷問被害者のことも言ったが、彼らは警察に殺されるのを怖がっていて言いたがらなかった。しかし、私はすべてを説明した。米兵は通訳を連れていた。私の話を理解して米兵はショックを受けていた。米兵は私だけをヤルムーク病院に連れていった。10人のイラク警察官が私の警備のために病院まで来た。4日間入院した。

病院でも拷問が行われていた。病院の窓に私を立たせ、町の人々に「この男はテロリストで、何人も殺している、彼は自爆テロの首謀者だ」と叫び、人々は靴や石を私に向かって投げてきた。

4日後、ジャドリヤセンターに連れていかれた。センターは3階建て。地下室が最悪で、そこでは手足を切断したり、目をくりぬいたりしている。私は、両足にアシッドをかけられケロイドになった。(H2SO4?)ジャドリヤセンターでは、ほとんどの囚人が元イラク軍のオフィサーだということが見てわかった。他の囚人たちは手首から切り落とされていた。深夜になると、囚人がますます増えていく。囚人が拷問死すると、道路に投げ捨て、新しく拉致してきていたので、囚人部屋は常にいっぱいだった。目隠しをされていて、私語禁止だった。聞こえるサウンドから一部屋におそらく5、6人だと思う。2006年5月、釈放された。

釈放後、具合が悪く自宅で寝込んでいた。2ヶ月後、アンバール州への人道支援を再開した。
2006年7月(8月かも?)ある日、息子と一緒にガソリンを入れにベイヤ地区に行った。ガソリンを入れた後、買い物をしていた。自宅に戻る途中、ベイヤ交差点で4台の乗用車オペルが私の車を銃で止めた。息子は車を発進させて逃げようとしたが、私は息子を止めた。殺されると思ったから。4人の武装した人が車にやって来て、1人がドアを開けて、私の胸ぐらをつかんで引き下ろし、罵詈雑言。息子は彼らを止めようとしたが、私は息子にこの場を去るように告げた。1人の男が銃で車のリアウインドウを撃った。私は1台の車に連れ込まれ、両足の間に頭をはさんだ態勢をとらされた。

車を発進させて10分後、途中で警察の検問所があった。全員が武装しているのに、警察は何も言わずに彼らを通過させた。10分後、フセイニーヤ(シーア派の礼拝所)の裏の民家に連れていかれた。そこで、彼らは私を叩いたり、蹴ったりし始めた。何人かは普通の服で、他は黒装束。顔にマスクはしていなかったので、顔を見た。

その後、彼らは私の手足を縛り上げた。目隠しもされた。部屋に入れられた。他にも捕らえられた何人かがいたようで、うめき声が聞こえた。痛がっていた。

1人の誘拐犯が、「セイイットが来るぞ」とくり返していた。セイイットとはシーア派のリーダーのことを指す。セイイットが来た途端、誘拐犯は「我々はシーア派を殺したスンニ派リーダーを捕まえました」と言った。セイイットは、「よし、そのまま捕まえておけ。その男をシーア派法廷に連れていく」と言った。

私はその場所に3日間捕らえられていた。息子は警察などにコンタクトを取った。息子にはシーア派の友人がいて、その父親はイラク警察オフィサーだった。すると、バグダッド警察事務所長が見つけ出して釈放すると約束してくれたそうだ。

3日目、見知らぬ人が私を訪ねて来て、私を連れ出した。パトカーに載せられ、ベイヤのイラク警察の検問所に連れていき、「ある人がやってきて、自宅に返してくれる」と言い残してどこかに行ってしまった。すると、バグダッド警察事務所長が来て、自宅まで連れていってくれた。後に、息子が身代金を払ったことが判明した。バグダッド警察事務所長に1500ドル支払っていた。その3日後、シリアに逃げてきた。

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b0006916_23103535.jpg(左の写真)電気ワイヤで拷問され指先が落ちた。(右の写真)両足に液体をかけられケロイドになった。
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by nao-takato | 2007-03-08 23:37 | イラク全体

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